ゆうへいのブログ

日々の記録と気付きを日記感覚で書いています。

からだを『レイヤー』で捉えアプローチする【原因不明の不調】

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2018年頃から、右足だけに原因不明の"痒み"があり、7年ほどずっと悩まされてきた。

 

足に小さなブツブツが出来ては→痒いのでそれを掻きむしって→肌が荒れ血が出て痛む→触らないから治るけど→また痒くなる、というサイクルを繰り返していた。

 

ネットで調べても、"水虫"としか出てこないし、医者に処方された薬を試したりもしたけれど根治することはなく、結局は自分なりに向き合うしかなかった。最近やっと症状が落ち着いてきたので、実践したことなどをまとめていきたい。

 

同じような悩みがあったり、からだに原因不明の不調がある人の一助になればいいなって思います。 

 

 

 

①症状は"悪者"ではなく、『身体からのサイン』

 

以前は、発熱や痛み、痒みなどの症状自体を"悪いもの"と捉えていた。なので薬を飲んだり治療を受けたりと、西洋医学的な対症療法に頼りきっていて「一刻も早く治さなければ」と思っていた。

 

そうではなくて、症状は「からだに合わないものを摂取してますよ」、「からだに負担をかけるような環境にいたり、生活をしていますよ」という"からだ"からの『サイン』であり『メッセージ』だと捉えて、自分の生活習慣や食事、思考のクセなどを見直すようになった。

 

アレルギーに限らずどんな症状も、体が「合わない食べ物や飲み物」、「ウイルスや毒」、「ストレスや心的外傷」などを体外に排出するための『自浄作用』であり、"毒を出し切る"まで症状は終わらないし、無理やり終わらせるべきじゃない。

 

 

②足すことより"引くこと" 

 

痒みに限らず、いつも慢性的な疲労や眠気に悩まされていたし、過敏性腸症候群や肌荒れ、軽い鬱症状など心身ともにボロボロな人生を送ってきた。

 

"サプリメント"や"プロテイン"を試してみたり、発酵食品や野菜など"健康に良い"とされているものをどれだけ摂ってもダメだったけれど、

 

・ジュース類を一切飲まず、ミネラルウォーターに置き換えた

・1年ほど期間を決めて小麦粉、乳製品、砂糖を出来るだけ避けた

・化学食品添加物(アミノ酸アスパルテームなど)を出来るだけ避けるようにした

・2年ほど"16時間ファスティング"(8時間以内に食事を終えそれ以外は食べない)を行った

 

を取り入れることで体質改善して、上記の悩みがなくなった。

 

『足すこと』ばかりに意識が向いていたけど、まずは"何を摂らないか=『引き算』"を意識することの方が大切だと気付いた。

 

インドの生命科学"アーユルヴェーダ"でも、『アーマ』="内臓で消化しきれなかった食べ物"が蓄積されて病気を引き起こすとされているし

 

日本一の人相見であった"水野南北"も、「生まれつきどんなに強運でも、食べ過ぎが破滅を招く」と言っているように

 

『腹八分』に立ち返ることがやはり大切だった。

 

 

③自分にとっての"最適"を知ること

 

高城剛さんの書籍『BIO HACKING』の中で紹介されていたけれど、"とるべき健康戦略は遺伝子の傾向によって大きく異なる"ということが科学的に解明されてきている。

つまり、身体にとって"何が合って、何が合わないのか"には個人差があるということ。

 

実際に、断食を行って自分を"空っぽの真っさらの状態"にしてから、摂取したものと体調の変化の相関を記録していくと、「健康にいいとされているもの」が自分に合わないことが往々にしてあったし、「適量」も食べ物や時期によって違うことに気付いた。

 

"鶏肉は大丈夫だけど豚肉はダメ"とか、"豚肉のバラ肉は大丈夫だけど肩ロースはダメ"とか、"豚バラ肉100gくらいまでは何ともないけどそれを超えると痒みが出る"とか。

 

遺伝子検査をするのがベストなんだろうけど、高くて手が出なかったから自分の身体で人体実験を楽しむつもりで「何が最適なのか」を探っていった。

 

 

④神経系に留まる「トラウマ」を解放する

 

食事による、体質改善でどんどん健康になっていったのだけれど右足の痒みだけは残ったままだった。

 

しばらく停滞期が続いたあと、結果として"筋膜リリース"と"TRE(トラウマ解放エクササイズ)"を取り入れることで痒みがなくなった。

 

身体は、"筋肉系"、"筋膜系"、"骨格系"、"内臓系"、"神経系"、"血管系"など様々な「レイヤー」が重なりあっている。

 

きっと食事療法による体質改善では、内臓系と血管系にはアプローチ出来たけれどそれ以外には効き目がなかった。

 

ベッセル・ヴァン・デア・コーク博士の著書『身体はトラウマを記憶する』によると、

 

危機に直面したとき、神経系は「闘争(戦う)」か「逃走(逃げる)」、あるいはそれが無理なら「凍りつき(フリーズ)」という反応を自動的に選ぶ。

健康な状態では、脅威が去ると"震え"や"深い呼吸"などを通じてエネルギーが放出され、神経系はリラックスした「休息モード」に戻るが、


​ 恐怖が強すぎたり、逃げ場がなかったりして、これらの防御反応を最後まで完了できなかったとき、その過剰なエネルギーや緊張が神経系の中に「未処理のまま」残り→"トラウマ"となる

 

 

とのこと。

 

個人的な経験として、視線の方向がずれる病気「斜視」や瞼が下がる病気「眼瞼下垂」の全身麻酔を伴う外科手術を受けたことがあったり、幼少期の家庭環境の影響で、おそらく"複雑性PTSD"持ちであることもあって、まさかとは思ったけれどドンピシャ当てはまった。 

 

トラウマ解放エクササイズでは、"震え"を利用し神経系から

 

筋膜リリースでは、"圧力" を利用して筋膜系から

 

蓄積されたエネルギーや"詰まり"を取り除くことが出来たと思われる。

 

 

 

まとめると、原因不明の症状に対しては

 

・症状を"身体からのサイン"と捉えて、自分の生活習慣や食生活を見直すこと。

 

・「足し算」より「引き算」で考えて、まずは自分の生活で"過剰"になっていたり"中毒ぎみ"になっているものを減らしてみること。

 

・自分に"合うもの/合わないもの"や"適量"は個人差があるということを念頭に置いて、からだの声を聞くこと。

 

・身体を"レイヤー"で考えて、アプローチする層を変えてみること。

 

が個人的には有効だった。

 

 

****

 

頭でどんなに"辛くて死にたい"と思っていたとしても、身体はいつだって"生きる"ことを諦めない。止めようと思っても心臓は動くことをやめないし、内臓は働き続ける。

 

 

免疫系の暴走やがん細胞の増殖など、身体がバグを起こすこともあるけれど、まずは身体に原因を求めるのではなく"自分の生活習慣や思考を見直す"ことが先決。

 

 

からだを、言うことを聞かない"じゃじゃ馬"として敵視しコントロールしようとするのではなくて、  

 

自分を生かそうとしてくれている"味方"であり自分の命が宿る『神殿』として、いつも耳を傾け、丁重に扱っていきたいなって改めて思います。

 

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

 

4つの側面から目標を立てる〈からだ・心・魂・シャドー〉

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長いようで短かった正月休みも終わり。今年も仕事が始まる。筋肉も動かさないと縮こまって固まっていってしまうように、「適度なストレスがないとダメになってしまうよ」、と思いながら、秒で、いや瞬で、時はすぎた。休みが長いと、怠惰になってしまってイケない(爆)

 

もう新年を迎えて数日経ってしまっているけど、スタートダッシュしない。自分のペースでいく。そもそも、1月1日ってイエス・キリスト基準でしょう?欧米か!スロースターター型人間のために、2/4立春、3/21春分っていうスタートチャンスがまだ2回も控えてる。焦らずいこう。

 

 

新年と言ったら、今年の抱負とか目標を立てるけれどINFJであり、咲く場所を選ぶより"置かれた場所で咲く"派の自分は「絶対にこれを叶えてやる」みたいなギラギラした野心はあまりない。

 

目標を立てた年と立てなかった年、どちらも経験済みだけど、"本当に叶えたいこと"とか"やりたくないこと"は、わざわざ掲げなくてもいつのまにか叶ってるものだし、逆にどっちでもいいかなってことは続かないし、挫折したり、苦労して手に入れても印象に残らなかったり身になってないことが多い。

 

変化の激しい時に生きているから、"決めた目標"自体が意味をなさなくなることだって往々にしてある。"そろばん"チャンピオンになるのはすごいことだけど、"電卓"には勝てない。

 

そもそも、"新年に目標を立てる"というのは、子供の頃にインストールされたままアップデートされていない概念で何の疑いも持たずにやっている事の一つだけど、会社でさえ上・下半期分かれているし、春夏秋冬で身体も心も状態が違えば、周りの環境や状況も変わるのだから、「やりたいこと」、「避けたいこと」か変わるのも当たり前。

 

その時々で軌道修正しながら"自分の人生にとって優先度が高いものな何か?"をいつも気にかけておくことが大切だし、むしろ"やらないことを決めて捨てていくこと"の方がQOL(生活の質)を上げるかも。

 

 

何はともあれ、いい機会なので目標を立ててみる。目標は、具体的な数値を決めることが大切らしいけれど、

 

今回は、以前読んだケン・ウィルバーの"インテグラルライフ・・プラクティス"という本の中に『人生の目標』を〈からだ・心・魂・シャドー〉という4つの側面から考えてみるというものがあったのを思い出したので、それに沿ってBeing的なフワッとした目標を立ててみたい。

 

 

 

 

★からだ

有酸素運動

→週に1.2回は、ランニングをする。

 

・ヨガやストレッチ

→寝る前は、スマホや本を置いてストレッチをしてリラックスしてから眠る。

 

・飲食物の改善

→砂糖を出来るだけとらない。去年は、四毒断ちなどストイックにやりすぎたので適度に楽しみながら。

 

・スポーツなど

→毎日スクワットと筋トレをする。新しい体を動かす趣味が見つかるといいな。ダンスとか。

 

・トラウマの身体的解消

→内受容感覚を育てる。フォーカシングについて学ぶ。神経系を育てる。脳を育てる。姿勢を良くする、ストレートネックを改善する。

 

★心

・インプット

読書は毎日したい。無料の情報ではなくて、ちゃんと対価を支払った情報を取りに行く。できるだけショート動画や短文のコンテンツから離れる。

 

・勉強

心理学(トラウマ、トランスパーソナル、人生脚本、フロイト)、解剖学、神経系、仙道、気功、カバラ、AI生成音楽/動画など学びたい。

 

・アウトプット

ブログを一ヶ月に10記事はあげたい。TwitterかThreadsもはじめてみたい。

 

・価値観の検証

新月-満月の1サイクル毎に振り返りと軌道修正。3ヶ月毎に考える機会を設ける。

 

・信用貯金、心を開く

→あいさつ、レスポンス、笑顔など基本的なことを当たり前に出来るようにする。人を素直に認められるように。

 

・感情

→プルチックの感情の輪など、感情について学ぶこと。感情についての解像度を上げる、表現方法を上げる。

 

 

★魂

・祈り

→毎月神社参拝。お彼岸には、墓参り。毎朝、お祈りと感謝の時間をとること。

 

・瞑想

→朝、晩最低10分ずつは瞑想を行うこと。

 

・夢や直感を信じる

夢日記をつけてみる。"やりたい"と思ったことや"行きたい"と思った場所などは、出来るだけ叶えられるようにすぐ動く。

 

・探求

カバラ探求、西洋占星術探求、東洋占術探求、気功や道について探求

 

★シャドー

ジャーナリング

→ムカついたこと、悲しかったことなど心が動いたことは書き出して発散して、その都度昇華させること。

 

・負けを取り入れる

→勝つことは、"誰かが負けて悔しがること"だから必要ない時は"負ける"こと。"場"で考えて、陰を出来るだけ背負わない行動をすること。

 

家系図

→先祖の家系図作りを進める。家系のパターンを研究する。

 

・伝えるべきことを伝えること

→モヤモヤすることは溜めて関係性を切ってしまうのではなく、その都度伝える事、逆に相手側からの不満も真摯に受け止めること。

 

 

こんなものかな??

きっと、これ通りにはいかないけど楽しみながら1年過ごしていこう。

 

 

最後はいつも"どんな感情を味わいたいか"。

 

勝っても負けてもそれをやりたいというものにベットすること。

 

"Doing"やりたいことは枝葉であり、"Being"どうありたいかから考えること。

 

大切にしたい軸を、"社会"とか"常識"とか"他人"みたいな外側に置かないこと。

 

 

目標には、経済的なものとか人間関係とかあげればきりがないけれど大体は、「勝つこと」「増やすこと」がゴールになりがち。

 

〈からだ・心・魂・シャドー〉など、いろいろな側面から考えたら、自分にとって本当に目指したいものが総合的にみてどこになるのかは、人によって大分違うと思う。

 

 

バランスよく、有限な時間を自分にとって優先度の高いものに使っていけたらいいな。

 

 

 

とりあえず、個人的には1にも2にも"スマホ断ち"です、、

 

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

 

『怒り』を解放し、自分の〈パーツ〉と対話する

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晦日は、実家に帰り、みんなで紅白をみて年越しそばを食べて氏神様に初詣をして、という可もなく不可もない"フツー"の年越しをした。こうして今年も無事、新年を迎えることができた。

 

初詣には毎年欠かさず行っているんだけど、コロナ禍後くらいから年々参拝者が増えている気がする。氏子の方々が甘酒を振る舞ってくださったり、若い人たちが増えたのもあってか、活気があって。特段コトバを交わすわけでもないけれど、"この空気感いいな"ってほっこりした。

 

普段は意識しない、同じ土地に縁をもつ人々がこんなにもたくさんいて。それぞれに山あり谷ありの人生があるけれど。年に一度、こうして一つの接点で交わっては、また一つ一つの日常へと戻っていく。還る場所があること、それを守ってくれている人がいることって本当にありがたいことだ。

 

どこかの誰かが人知れず祠に供えた花やお酒、誰かが灯した蝋燭の明かり。お賽銭や寄付。きれいに掃除された境内。

 

目立つこととか大きなことに目が行きがちで、意識をしてないとつい見過ごしてしまうけれど。"平和"とか"幸せな日常"って、こうした人知れず行われている"誰かの小さな善意"の積み重ねで出来ている。自分も、そういう風に陰ながら世界に"善意の火種"を焚べていけたらって思う。

 

 

と同時に。

 

2025年までだったらここで終わっていたけれど、『その先へ行くのが2026年』だと、YouTubeチャンネルの"FIRST TAKE"でAdoが「うっせぇわ」を歌唱しているのを聴いていてふと思った。- YouTube

 

 

初詣で清々しい気持ちになったのは事実だし、普段人前では怒らないし、不平・不満・愚痴・泣き言もあまり言わないし、いい人"風"なクセに「うっせぇわ」を聞くと、自分の中の"アツくてドス黒い何か"が脈を打って、心が沸き立ち、滾る。聞いたあとには、爽快感さえある。そんなようなチグハグ感や違和感がずっとあった。

 

 

人間はきっとキレイゴトだけでは生きられない。どんなに非がないように見えても聖人であろうとも、それは"抑圧"したり"乖離"していて、見て見ぬふりや蓋をしているだけで、いずれどこかに綻びが出てくる。

 

 

今年の紅白歌合戦を見ていて

 

一昔前だったら、受け入れられなかったであろう「ルッキズムへのヘイト」や「男性性への怒り」を前面に押しだしている"ちゃんみな"や"HANA"がたくさんの人々を魅了しているのも

 

メンバーが広島原爆を連想させるような家具をSNSに投稿して炎上した"aespa"に対する日本国民の「我を忘れたような怒り」も、

 

 

"真面目でいい子ちゃんの日本人"が今まで押し込めて抑圧して見て見ぬふりをしてきた、怒りや怨み、妬み嫉み、悲しみなどのネガティブな感情が解放を求めて噴き出しつつあるんだと思った。きっと、その対象は何でもよかった。

 

 

 

 

 

MBTI診断や血液型占いなどのように、「"心"や"性格"、"人となり"は固定されていて一つだ」という方が分かりやすいからつい受け入れてしまいがちだけど、

 

 

作家の"平野啓一郎さん"が

 

「人間は、"特有の性格/性質"〈本質〉があって、それが状況にあったペルソナ〈仮面〉を器用に付け替えている」のではなくて 

 

「玉ねぎのようにいくら剥いていっても核〈本質〉などは存在せず、"分人"と呼ばれる無数にあるサブ人格のようなものが状況や目の前の他者に合わせて、次々と立ち現れているだけだ。」

 

という『分人主義』を主張していたり、

 

リチャード・シュワルツ博士によって開発された心理療法の『IFS(内的家族システム:Internal Family Systems)』でも、

 

"人間の心は一つの単一な人格ではなく、複数の『パーツ(部分)』が集まった家族のようなものである。"

 

と言われているように、自分自身であっても気付けていないようないろいろな側面をもっているのが、人間であり、『心』だし、

 

忘れちゃいけないのは、

「どんなにポジティブで社会的に良いとされている」側面も「どんなにネガティブで忌み嫌われている」側面も同じだけ大切な"自分の一部"であり、必要だから存在している、ということだ。

 

社会の中で生きていると"調和"とか"平和"とか"正義"、などの「キレイゴト」に偏りがちになる。

 

そういう自分の中の神性="キレイな部分"だけじゃなく

 

自分の中の悪魔性="汚くて醜い野生の部分"も

 

同じように受け入れ、愛していくこと。

 

 

"鋼の錬金術師"の作中でホーエンハイムが取り込んだ死者たちとの対話を終わらせたというセリフを思い出した。

 

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(引用元:荒川弘著「鋼の錬金術師」)

 

 

自分の中の、いろいろな側面〈パーツ〉と対話して和解して統合していくことはつまり、

 

先祖の因縁や家系のトラウマを癒していくことでもあるだろうし、

 

脳や神経系、本能といったカタチで我々を生かしているくれている、今までの進化の過程で淘汰されていった生命の声に耳を傾けることでもあるんだと思う。

 

 

 

2026年は、"丙午"。"火"の年だ。

火が表すのは、直感やインスピレーションであり、「怒り」、「本能」。

 

からだの声を聞き、本能と向き合う時。

 

隠して抑圧してきた、"怒り"に気付いて解放していく時。

 

 

そして、自分の中のもっともっと深層に眠る、新たな側面〈パーツ〉に出会えるといいな。

 

 

"善意"と"悪意"バランスよく、『人間』をやっていく。

 

 

そんな一年にしていけたら。

 

 

 

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

『アバター』ー血を超えて、道へ還るー

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映画『アバター:ファイアー・アンド・アッシュ』に関しての記事になります。ネタバレになるかも知れないので、まだ見ていない方はお気をつけ下さい。

 

 

 

 

 

 

 

映画『アバター』の新作を観に行ってきた。ファイアー・アンド・アッシュ。森の民→水の民ときて、今回は"火"がテーマ。

 

今作のキーマンであり、火山帯に暮らす“アッシュ族”マンクワンの族長である「ヴァラン」が女性リーダーであったことが印象的で、2026年が"丙午"であることや女性初となる"高市総理"の誕生と重なった。

 

 

これまでは、侵略者である"地球人"と先住民である"ナヴィ"との戦いが描かれてきたけれど、先住民ナヴィ同士でも争いや思想の違い、差別があって一枚岩ではなく、まるで地球人である自分たちへの皮肉のようにも感じられた。

 

 

また、主人公ジェイク・サリーとその妻ネイティリが、息子同然だが異星人の「スパイダー」と「ナヴィ族の未来や人間に家族を殺された怨念」を天秤にかけ、頭では"スパイダーを殺すべき"と考えながらもそれが出来なかったシーンには、思わず目頭が熱くなった。

 

今年公開された映画『国宝』や湊かなえさんのドラマ『人間標本』にも通ずるところがあるけれど

 

「"血"を超え、"道"に還れ」

 

というようなメッセージのように思えた。

 

どんな家柄も人種も民族も元を辿れば、先祖だとか国だとか血脈、それさえも超えて、全てはこの「地球」という惑星、果ては同じ宇宙の塵から発生した兄弟であり、道教でいう"道"や"集合的無意識"、作中でいえば「エイワ」で生死を超え繋がっている。

 

これからの時代は、

 

『"血統"への固執を捨て、"霊統"の繋がりに目を向ける。』

 

 

アバター』シリーズは、SF映画 でありながら一種の霊感というか、"遠い未来に本当に起こること"をインスピレーションで受け取って垣間見る「"予知夢"のような体験」という印象を毎回受ける。以前、"マトリックス"シリーズで感じたような。

 

先住民"ナヴィ"の猫のような容姿は、チャネリング本であるリサ・ロイヤルの『プリズム・オブ・リラ』で読んだ"リラ星人"を思い起こさせるし、後頭部にある触手である"フィーラー"は今年スピリチュアル界隈でバズっていた『TUFTI』の"意図の三つ編み"を彷彿とさせる。

 

 

また、"集合無意識"ってどこか空の上の、宇宙空間に広がっている無色透明な空間というようなイメージだったけど、もしかしたら菌類や植物のように地球に張り巡らされたネットワークなのかも、って「エイワ」を見ていて少し思った。直感は"ガットフィーリング"、腸(腸内細菌)から来るというし。

 

 

 

 

 

 

今作を観ていて、

 

イーロン・マスク率いるスペースXが、2055年には人類の「火星移住」を達成すると発表していることや

 

内閣府のホームページに2050年までに「ムーンショット計画」を達成すると掲載されていることが頭をよぎった。

 

 

ちなみに、ムーンショット計画とは

 

・AIロボットや"アバター"の活用により、身体/脳/空間/時間などの制限から解放されること

 

・病気を早期予測/予防をしたり、100歳まで健康不安なく生きられるように老化制御や医療技術などを革新すること

 

・「量子コンピュータ」の開発や、海中の重水素核融合に利用し"地球上に太陽をつくる"技術である「フュージョンエネルギー」を実用化すること

 

温室効果ガスの回収やリサイクルなど"循環型社会"の推進と、"食料不足0"や台風などの災害を防ぐ"気象コントロール技術"の開発すること

 

・AIなどにより心を"数値化"したり"可視化"し、適切なマッチングや対処を行うことによりウェルビーイングを向上させること

 

などを目指すことであり、全部で10の目標が掲げられている。

 

https://www8.cao.go.jp/cstp/moonshot/sub1.html

 

 

人類はこの先、宇宙に進出していき、『アバター』で描かれるように自分たちのため、向かう星々の生態系や環境を破壊し、いいように作り変え科学技術でその星を"植民地"として支配していく未来を選ぶんだろうか??

 

場所を変え、やり方を変えただけで侵略と暴力の歴史をまた繰り返すんだろうか??

 

 

それとも、『ガイア理論』で述べられているように、"地球"を一つの生命体として認め、支配し制御するのではなく先住民のように大地の声を聞き、足るを知り真善美を選び、星と共に生き/星と共に死ぬ"共存の道"を進むんだろうか??

 

監督自身も、先住民"ナヴィ"たちを「高次の自己(ハイヤーセルフ)、あるいは私たちがそうであると思いたいような願望のある自己を表している」と言っていた。

 

 

 

新たな土地を得ること、労働から解放されること、死を克服すること、病気を克服すること、体の制約や苦痛から解放されること、天災がなくなること。

 

人間である自分の「エゴ」からすればヨダレが出るほどほしい、素晴らしいことだけれど、 全ては"支配すること"/"コントロールする事"であり、自分含め人間ってつくづく「負けることが嫌いで怖いんだなぁ」って思う。

 

何に?ウイルスに。他人に。他国に。地球に。宇宙に。神に。

 

生物圏からみたら?地球からみたら?宇宙からみたら?魂や霊という世界観からみたら?って視点を変えてみると、何が正解か分からなくなる。聖書では、バベルの塔を建て神に近づきすぎた人類は、神の怒りをかった。

 

 

アバター』を見る時はみんな、非侵略者である"ナヴィ"に感情移入して、侵略者である"地球人"に反感を持ちながら鑑賞していると思うんだけど、全ては人類がやってきたことだ。これまでも、これからも。

 

 

 

未来はどうなるかわからないけど、

 

それでも地球や、地球由来のこの"からだ"に根ざして生きていきたいものだな、って改めて感じた。

 

 

 

 

アバター:ファイア・アンド・アッシュ。あっという間の3時間でした。おすすめです!

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

アウトプットは『バイアス』を強化する

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ブログを再開してもうそろそろ一ヶ月くらいになる。最初は毎日コンスタントに書き続けようと思っていたんだけど、コレがなかなか難しい。今は2.3日に一つ記事をあげられるくらい。

 

もちろん、体力とか時間的な問題もあるんだけど、何より「アウトプット」と「インプット」のバランスをとることの難しさに改めて気付かされた、というのがある。

 

 

アウトプットをはじめてよかったのは、いつもネタを探すように毎日を過ごすから普段見過ごしていた「自分目線の気付き」がすごく増えたこと。それが単純に楽しいし、世界に対する解像度もあがる気がして嬉しい。

 

 

だけど、何かを伝えようと"アウトプットモード"に入るとき、どうしても自分を閉じる必要が出てくることに気付いた。誰かの意見や考えを取り入れすぎることで、自分の中に芽生えた小さな"気付きの種"みたいなものが埋もれて見えなくなってしまうから。

 

どれだけ新しい価値観をインプットをして、どれだけ自分を閉じてアウトプットをするか。その加減がすごく、難しい。

 

 

毎日投稿をしようとしていた時は、SNSで誰かの投稿を見ることやインフルエンサーの発信を何となく避けるようになっていって、果ては"ライバル"だとか"敵"みたいな気までしてきて、いつもは何も考えず情報を気楽に享受していたのに、素直に"インプット"することが出来なくなっていく始末だった。

 

 

偏った少ない情報しか入れず→自分の意見やポジションを提示して→リアクションという小さな成功体験を得るというアウトプットのサイクルを回していく内に、自己固執して"自分の認知"が固まっていくような気がしていた。

 

 

インプットだけではなくて、"アウトプットにも『バイアス』を強化する一面がある"と思う。

 

一にも二にもアウトプットが推奨されているけど、やはり過剰なアウトプットは"毒"だ。適量やインプットとのバランスの加減は人による。

 

 

SNSでよく見かける、

 

原理主義的になって正義の名のもとに"特定の誰か"や"自分と違う思想をもつもの"に対して過激な攻撃をしかけている政治界隈、陰謀論界隈の人や

 

自分もハマっていた時期があるから分かるけど、"宇宙由来の魂"だとか"霊格の高さ"だとか"スピリチュアル能力の有無"だとか、現実を疎かにして何も変わろうとしないのに、自己認識だけがどんどん大きくなって悟るどころか"エゴまみれ"になっていくスピリチュアル界隈の人とかを見ていると特にそう思う。

 

ただでさえ、アルゴリズムが最適化されて得られる情報が最初から偏っているのに、同じ価値観の人とだけ繋がって、同じ情報ばかり仕入れては、考えもせず横流しに拡散して、同じ価値観の人からの承認を得て気持ちよくなっているうちに、"それが世界の総意であるかのように錯覚してしまって"、どんどん認知が歪んで、小さく偏った世界に閉じ込められてしまっていくように感じる。

 

 

自己啓発で、「読書をする時にまずは"目次"をみて、何を得るのかを明確にしてから読み始めましょう」ってよく言われるから取り入れてみたことがあるけど、これも同じだと思った。未知のものを知ろうとしているのに、"今ある自分のなかの小さな尺度"だけで解釈しようとしている。

 

 

アインシュタインが、「いかなる問題も、それが発生したのと同じ次元で解決することはできない」と言っているように

 

現時点の自分の認知って、絶対に偏っていて狭くて歪んでいるのにそれを過信していたらずっと同じ場所、同じ次元で足踏みをしているようなもので一向に先に進めないのではないか。

 

 

また、トランスパーソナル心理学者の"ケン・ウィルバー"が

 

"愛"や"執着を手放すこと"を教えとしてるはずの『宗教組織』が他の宗教を弾圧し、改宗させようとするおかしな現実を分析して

 

意識には

・ウェイキングアップ(悟りや覚醒体験、霊能力の発現など)

 

・グローイングアップ(意識や気付きの発達段階、精神レベルなど)

 

の2つの側面があることを説明していたことを思い出した。

 

 

つまり、どれだけ地位を得ようが、能力やスキルをあげようが、フォロワーが増えようが、経済的に成功しようが、覚醒しようが、神秘体験をしようが、

 

その人が"どんな精神レベル"で、"どんな世界観や価値観で現実を認識しているのか"には全く関係ないということ。

 

 

社会的に同じように評価され、同じように成功している人がいたとしても

 

『世界は争いに満ちていて勝ち負けが全てだ』、という世界観で生きている人と

 

『全ての存在が公平で素晴らしくて調和していくことこそ素晴らしい』、という世界観で生きている人では

 

見ている世界が全く異なるということ。

 

 

 

人間として、社会の中で生きるということは、"自分のポジションを明確にして自己主張すること"=「アウトプット」の繰り返しだ。アウトプットなしには、生きていかれない。楽しくない。

 

だからこそ、

 

畑に野菜の種を撒くだけじゃなくて、日に当てて水や肥料を与えて、雑草を取り除いたり間引きをしないといい作物はできないように、

 

 

まずは種を撒かないことには収穫はできないし、栄養が偏ったり休みなく使い倒せば土壌自体が痩せ細って作物が実らなくなってしまうように、

 

 

自分の認知や選択は偏っているということを前提に

 

 

・出来るだけいろいろなカタチで、いろいろな経路からインプットをして価値観を広げ続けること

 

・時には、入れる情報を取捨選択したり、古い情報をアンラーンすること

 

・アウトプットが、承認欲求を満たして『バイアス』を強化するためだけの装置になっていないか気にかけておくこと

 

・ノルマに固執して、ひねり出すように無理なアウトプットを続けるのではなくて、育てたものをその都度、収穫するような気持ちでアウトプットを細く長く楽しみながら続けていくこと

 

を大切にしていきたいな。

 

 

"アウトプットは『バイアス』を強化する"

 

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

"ぼっち"恐怖症と「ホンモノの幸せ」

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今年のクリスマスは、平日で仕事だったこともあって一人と一匹(コザクラインコの"ひーちゃん")とで過ごしていた。いわゆる、"クリぼっち"だった。

 

かといって、アンチではなくクリスマスの雰囲気は好きだ。会社でも、「今日はクリスマスだからみんな定時で帰るぞ」っていうノリがあったり、みんながソワソワしてることにほっこりしたし、街を歩いていてもみんな幸せそうで"いいなこの空気感"って思った。

 

別に特別なことをするつもりもなかったんだけど、そんな世間のクリスマスムードに負けてカットケーキとお寿司を買って帰って食べた。おいしかった。メリクリメリクリ。

 

 

今では無敵の人ならぬ"無敵のぼっち"になってしまったけど、数年前までは、"ぼっち"という言葉に過剰反応していたように思う。クリスマスに一人でいるなんて、耐えられなかった。

 

クリスマスとかハロウィンとか"夏"、とかイベントがあるごとに誰かと一緒に"楽しいこと"をしたり、"しあわせ"なことをしていなくちゃ「負け」で、誰かから「お前の人生は価値がない」と言われてるような気がして、いつも焦っていた。

 

つまりは、他人や世間の目ばかり気にして『映える』ことで頭がいっぱいだった。

 

もちろん、当時は楽しかったし大切な思い出になったけどやっぱり根本が"一人でいることへの恐れ"だったり"劣等感"だったから、"誰かと一緒に楽しいことをする"という『事実』だけが大事で、目の前の出来事や一緒にいてくれる人たちのことを本当の意味で見れていなかったし、心ここにあらずだったように思う。

 

 

原因を考えてみると、世間に植え付けられた「しあわせ」のイメージがそもそもズレていて、間違っていたのではないかと思った。

 

幸せには、"ホンモノの幸せ"と"ニセモノの幸せ"があるのでは?

 

 

ホンモノの幸せは、自分から主体的に"感じる"もの
ニセモノの幸せは、外から"与えられて"初めて得られるもの


ホンモノの幸せは、じわっと広がって長続きする(セロトニン的)
ニセモノの幸せは、盛り上がってすぐに冷める(アドレナリン的)

 

ホンモノの幸せは、自然が作ったリズムや本能に根ざしている
ニセモノの幸せは、人間が作ったリズムや思考に根ざしている

 

ホンモノの幸せは、一人でも楽しい二人だともっと楽しい
ニセモノの幸せは、勝ち負けや優劣のある勝負の世界

 

ホンモノの幸せは、あってもいいし/なくてもいい
ニセモノの幸せは、いくらあっても足りずもっと欲しい

 

 

だと、個人的には思う。

 

 

クリスマスやバレンタイン、結婚式など「幸せの象徴」みたいなイベントを冷静に眺めてみると、やっぱり"作られた"、"ニセモノ"だと感じる。

 

どれにも、勝者と敗者がいて必ず"不幸"や"劣等感"を感じる人が生まれるシステムになっている。みんなが、やりたくてやっているというより、敗者にならないように必死になっているように思う。

 

まぁ、ビジネスだ。ビジネスとは"劣等感を刺激して、購買意欲を促すもの"だから、資本主義の中で無防備に生きていたら、「人生に何かが足りてない」と思うことは当たり前だし、「ありもしない正解」があるような気がして不安になる。

 

 

間違っちゃいけないのは、それ込みで世界だし、それ込みで現代だし、それ込みで人生ってこと。

 

そういうものを全部なくして、虚無の世界に生きるのが正解なのではなくて

 

踊らされるのではなく、自分からあえて"踊らされに"いく意識をもっていることが大切なんだと思う。

 

 

とはいいつつ、やっぱりクリスマスを一人で過ごすことに少しもソワソワしなかったかって言われると嘘になる。集合的な無意識とか、空気感とか本当に強力。間違ってるんじゃないかって気がしてくる。

 

 

それで、『自分にとっての幸せが、いつのまにか誰かにとっての"呪い"になってることってあるのかもしれない』って気付いた。仕方のないことだけど。

 

"じゃない方"の立場に立ってみて、今までの「楽しくて幸せだった出来事の外側」に初めて意識が向かった。 

 

 

もう、なんか、そういう"みんなで渡れば怖くない"的な幸せは古いなって感じてしまった。もっと、オーダメイドの、自分なりの幸せを模索したい。他の人に圧を与えないで、自分自身が幸せであれるような。

 

 

 

結婚すれば、恋人がいれば、お金があれば、とかとか。

 

 

劣等感や優越感を感じるような幸せからは離れよう 

 

 

これがあれば幸せという「一神教」的な価値観から離れよう

 

 

全てに幸せを見出す「多神教」的な価値観へ移行していこう

 

 

 

人生出来ない一番静かなクリスマスだったけど、これはこれで悪くない。

 

 

 

そんなことを考える、ひとりぼっちの!夜!でした!

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!

冬至は"内なる野性"が声を上げる時

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冬至。毎年、メンタルが爆発したり、身体が不調になったり、やる気が起きなかったり文字通り「陰が極まる」んだけれど今年は例年より激しい落差がなかった。 低調ではあったのだけれど。

 

陰も陽も振れ幅だから、今年はあまり無理をせず養生したり、ニュートラルに戻ることを意識してその時々で身体と心のケアをコツコツしてきたのがよかったのかもしれない。

 

 

冬至の体感を備忘録的に書いておこう。

 

①欲望の暴走

将来への不安や孤独感とか欲望(物欲、性欲、食欲、睡眠欲、安全欲求、承認欲求、社会帰属欲求など)が増した="「身体」や「脳」が主導権を握っていった"ように思う。冬至は、生物としての"個体"の生存欲求が一番強まる時なのかも。

 

②やる気の低下

やる気って"未来への希望"ありきのモノだと思うんだけど、いつもより現実主義傾向が強くなって夢や希望や理想論に対して"そんなことしても意味ないよ"的な思考に陥って、やる気が低下した。陽は「天」で、陰は「地」らしい。だとすると、冬至が1年で一番、"地に足がつく"時?なんて考えたり。じっくり計画を立てたりするのがいいのかも。

 

③無感症と鬱々としたエネルギー

何を見聞きしてもいつもより感動が少なくて、"アウトプット"欲も目に見えて減少した。内側から湧き出るものが枯れてしまった、というより抑えつけられて外に出てこれない感じ。

 

"鬱蒼と茂る" っていう表現があるように、『鬱』が実はエネルギーが枯れているのではなくて、"むしろ莫大なエネルギーが内側に向かっていて発散されていないだけ"、というハナシを聞いたことがあるけど冬至も似たような感じなのかも。

 

超自我が強まる

超自我」、つまり自分の中の"社会の目"、"世間体"や"常識"みたいなものが強まり自己否定が起きやすくなって「このままじゃだめだ」ってストイックさが増していた。やる気が出ないのに、やらなきゃって思うから焦燥感だけが強まって苦しい。

 

⑤自閉の殻が和らぐ

もともと自閉気質で、基本的に一人でいるのが楽な内向型人間だけど、それが極まり反転して「もっと人と繋がりたい」とか「もっと外に打って出たい」みたいな気持ちが本当に小さくだけど湧いてきている。ギューっと縮こまって頑なになっていた状態から、フッと力が抜けたような。春に向かって心が開き始めた気配がする。

 

冬至を過ぎて

冬至を境に、心のベクトルは外向きに切り替わった感じはするんだけど現在地がマイナスだから、ゼロを超えてプラスに転じるまではしばらく時間がかかりそう。からだは、むしろ冬至を超えて少し重だるいかも。心と身体のリズムはズレていて、カラダが心の後を追うカタチなのかも。(要経過観察)

 

 

陰が極まる冬至は、地球に一番根ざしている"身体"の声が大きくなる時なのかも、と思った。

 

頭は現代に生きているけど、体は今でもまだ"野生"だ。

 

野性の動物は我慢しないし、早起きしない、やりたくないことはしない。無理やりに頭で従わせて、押し込めてきた"野性"が声を上げるとき。

 

1年間、どれだけ自分に正直に生きられたかの答え合わせ。

 

 

そんなことを考えていたら、

 

"オーセンティック"という言葉を、全く違うジャンルの2人のインフルエンサーの方が発信しているのを見聞きした。シンクロニシティ

 

『オーセンティック』。価値観・信念・固定観念ではなく「自分自身に根差したもの」。自分軸。本当の自分らしさ。Z世代を中心に、新たな価値観として広がりつつあるらしい。

 

"権威のある誰かが言ったから"とか、"人間とは、男とは、女とは、こういうものだから"とか。世界が提供する『当たり前』や『正解』に自分を合わせにいかない。

 

人や世間やAIに聞く前に、

 

自分の頭に、体に、心に、魂に聞く。

 

そして、折り合いをつけて生きていく。

 

 

オーセンティックに自分の人生を生きていく。

 

 

来年はもっと、自分に正直に生きられるといいな。

 

 

そんな感じの冬至でした。

 

ここまで読んでいただき、ありがとうございました!